分岐点
(私のターニングポイント)
濃野 平 闘牛士


update:2014.06.02

この記事は「企業と人材」2014年2月号に掲載されました。

2002(平成14)年

 2002 年9月5日、スベイン・アンダルシア州ウエルバ。100 周年記念闘牛の最中、観客席から無断で闘牛場の砂場に飛び降りた私は、大勢の観客たちの前で巨大な牡牛に立ち向かった。
 闘牛士になろうと日本からやってきて5年、自らの未来をひらくための決死の売名行為だった。かつて「飛び入り」は闘牛界において、チャンスの少ない闘牛士志願者たちによって盛んに行われていたものだ。有力な闘牛ブロモーターたちの目に留まろうと、一か八かの飛び入り演技に挑んでいたのだ。当然、その無謀な行為の代償として、大怪我をする者たちは絶えなかったし、時には命まで失う者もいた。
 1997 年、私は 28 歳の時に闘牛士を目指してスベインに渡った。スベイン語も分からず、一切の伝手すらなかったが、私は期待に胸を膨らませていた。しかし、闘牛士になりたくて遠い日本からやってきたからといって、どこの馬の骨とも知れぬ外国人を、閉鎖的な闘牛の世界が無条件に受け入れてくれる訳がなかった。
 激しい競争の世界である闘牛界では、一人前の闘牛士になるのに人脈と多額の資金が必要とされる。外国人であるうえに経済的にも恵まれず、年齢的にもトウが立ちすぎていた私は、必然的にスベイン人の若者たち以上の厳しい道を歩むことになったのだ。
 そんな私を導いてくれたのが、同じ闘牛士志願者のビクトルだった。彼は私の親友であると共に師匠でもあったのだが、2001 年にビクトルが闘牛士を引退し、自分の前からいなくなると、私は自分ひとりでは闘牛活動を何ひとつ進めることができないことに気づいたのだ。
 言葉のハンデのみならず、闘牛界で右も左も分からずにいた私は、知らず知らずのうちに彼に何もかも頼るようになっていたのだろう。また徒手空拳のまま闘牛界に挑む私を取り巻く状況も、すでに八方ふさがりとなっていた。
 自分の力で闘牛士への道を切り拓いてみせる ― そう決意した私は昔ながらの危険な「飛び入り」に挑んだのだった。日本人である私の「飛び入り」劇は多くのメディアによって取り上げられることになり、その後の活動へと確実に結びつくことになった。それが私の闘牛士としての自立と成長の機会となったのは間違いないだろう。

●プロフィール
濃野 平
闘牛士
1968 年生まれ。1997 年に闘牛士を目指してスベインに渡る。1999 年に日本人として史上3人目の闘牛士デビューを果たし た後、2009 年に日本人初となるノビジェロ・コン・ビカドール(満3歳牛の仕留め士)に昇格する。現在、世界唯一の日本人闘牛士として活動中。著書に『情熱の階段 日本人闘牛士、たった一人の挑戦 』(講談社)。

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